秘密の森の沼地にて

わたしの泡は秘密なんです

ぐちゃぐちゃになっているけれどもがいて自分を探してる

誰も見ていないということが

こんなに気持ちのいいものだったのか。

私はいつだって

他人の目を気にして生きてきたんだな。

そういうのも社会を生きるには必要なことだけど

この自意識過剰っぷりは

自分でも辟易とするばかり。

 

 

「いつも自分の機嫌を一番に考える」

「自分が居心地がいいことが大事」

なんだそうです。

それが自分の純度を高めることなんだそうです。

 

そういう人たちは

どんどん人間関係を変えていきます。

当たり前のことかもしれません。

人は常に変化しているから。

この前までとっても楽しかったのに

今はなんとなく違和感を感じる。

 

そういう人と一緒にいると

居心地がよくないから

サクっと(じゃないかもしれないけれど)

人間関係を絶ちます。

私の周りにもそういう人たちがいます。

 

私は元々、自己価値が低いので

以前から人に嫌われるのが怖かった。

年齢を重ねるごとに

怖がっても怖がらなくても

何をしてもしなくても

嫌われるときは嫌われるんだ、とわかってからは

開き直りができるようになったし

ガッカリしても立ち直りが早くなったし

なんだかんだ言っても

新しい友人というものはできていくものだし

そもそも

自分だって

この人とはもう関わりたくないわん

とかって平気で離れるし。

 

でも、私は根が怖がりだから、

 

こんなに一緒にいて楽しいこの人、

家に帰ったら

「なんか、もう、問子と一緒にいても

いまいちだな」

ってなって

縁を切るんじゃないかしら

なんて思って泣きそうになります。

 

そんな風に考えるから

いつだって私は

切られる側の気持ちから抜け出せない。

そして

自分が他人を疎遠にしたときも

痛みを感じ(当たり前か)

切っても切られても

自分のせいだと思ってしまうなんて

本当にいい加減こういうのはやめたい。

 

誰が悪いんじゃない。

ただご縁がなくなっただけだ。

エネルギーが違ってきただけだ。

そこに痛みが発生するのは当たり前のことで

それだってひとつの経験だからいいんだ。

だから常に自分の居心地を一番に考えよう。

 

自分の居心地ってなんだろう。

 

それは他人の居心地じゃない。

 

私はやっぱり

笑っていたいです。

そして他人にも笑っていてほしい。

傷ついて泣いたりしないでほしい。

 

私が優しいからそう思うんじゃない。

私も傷ついて泣きたくないからです。

 

人にこだわっていきたい。

違和感感じて居心地悪いって

すぐに決めたくない。

関わってこだわって

それで最後の最後に「仕方ない」って

心からあきらめるまで

こだわりたいのです。

 

それが私の「心地いい」です。

 

なにが言いたいのやら、私。