秘密の森の沼地にて

わたしの泡は秘密なんです

わたしはあたしじゃないのだ

昨日は実家に帰るディだったのでS街へ行った。
母が某電気店で壁掛けサーキュレーターを購入したので荷物係。
待ち合わせは電気店の前。
大体、待ち合わせの30分前!には到着している人なので当然もう、いる。
電灯みたいなものの下にちんまりと座っている。
ちっこすぎる。
S街の雑踏なんか歩くと、人波にぶつかって吹っ飛ばされちゃうんじゃないだろうか。
でも、20年前の自分のまま、母は歩く。

老人になると我儘になるというけれど、本当だなぁと、
最近、(仕方なく)頻繁に実家に帰るようになってしみじみ思う。
我儘になる、というか、
今まで我慢していたことが我慢できなくなるといった感じか。

 

他人にどうみられるかが死ぬほど大事な人間なので
そこはもう全然変わらないけれど、
細かいところで我慢ができなくなって
見ていてこっちが「お・・おお??」となる時がある(笑)

帰宅して(別々の部屋で)食事して片付けをして
あとは自由時間。
母親と話すのはめちゃめちゃしんどいけど、
茶碗洗うとかその程度の家事しかしなくていいのがラクすぎる。
普段は帰宅してからの時間は全て家事に取られてしまうから。
こんなに自由時間があったら
詩を書いたり映画を観たり楽器の練習したりできるじゃないの。

早速、先日知り合いになった方々が作られた映画を見始める。
かっこいい。
なんでこんなにかっこいいんだろう、この人たちは。
と、入り込みそうになったところでゲーテからからメールがきたので
「✖✖を見てる」と返信したら、自分も見たいと言うので
途中で見るのをやめる。

1人で喫茶店や食堂で食事ができなかったり、
休みの日もひとりじゃいられないという女性は
何人も知り合ったことがあるけれど、
ゲーテは、できないことはないができるだけ誰かと一緒にいたい人だ。
何をするにもパートナーとしたいそうだ。
ちょっと面倒だと思う。
私はもちろん一緒にでもいいけど、
ひとりで食べる食事、ひとりで観る映画や舞台、ひとりで街を歩く・・・・
ひとりの楽しみも心から愛しているので
困るときがある。

ひとりを愛してるのは寂しさも愛してるってことか?
それとも
ひとりはちっとも寂しくないってこと?

私はどちらだろうと
考えても仕方のないことを考える。


それで
映画の中の人たちのことを考える。
あの人たちと知り合いにはなったけれど私にはまだ本当に遠い存在だ。
一緒のステージに立つにはどうしたらいいのだろう。
一旦死んで生まれ変わらないと無理な気がするが。

 

ゲーテと食事についてメールで話してて
私が
「満腹なのに食べてしまうのは心の穴を食で埋めている」
ということを書いたら
「本当に心に穴はあいているのだろうか?」
と言われる。


穴があるのにないフリをするのは
私は絶対にしてはならないことだと思っているけれど、
穴がないのにあると思い込んでいる=自分で作りだしている
という視点はなかった。


なるほど。
ちょっと考えよう。
どんなことでも勝手に思い込みたくない。
ないと思い込みたくないし、あると思い込みたくない。

あたしはどっちだ?
じゃないか、
あたしはなんだ?
か。


「あたし」って違和感あるが。